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上田を蚕糸業一大拠点の「蚕都」として育てた「三吉米熊の生涯」を孫の治敬(85)が語る!うえだ原町一番街商店会の「歩いて学んでハイ・ビンゴ」の一環。

テーマ:上田市ニュース

【講演で、米熊の渡航許可書を掲げる三吉さん】
【米熊の生涯を描いた漫画】

 上田を蚕糸業一大拠点の「蚕都」として育てた三吉米熊の生涯を語る講演会が、このほど上田市原町の池波正太郎・真田太平記館であった。
 米熊の孫で同市大手の三吉治敬(はるたか)さん(85)の語りに、30人ほどが耳を傾けた。

 うえだ原町一番街商店会が3月10日まで開催中の偉人・先人を学びながら商店街を巡る「歩いて学んでハイ・ビンゴ」の一環。
 講演では、このイベントに合わせ、ヤポンスキーこばやし画伯が制作した米熊を描いた漫画を使って、その生涯を語った。

 米熊が生きた明治から昭和の初期、日本の絹は世界一と言われ、その中でも長野県が日本一の生産量を誇った。
上田には、日本初となる蚕の専門学校があった。
その立役者が米熊であり、顕微鏡を使う蚕の研究を普及させ小県郡立蚕業学校(現・上田東高校)を創設し初代校長となった。

 米熊は長府(現・下関市)藩士、三吉慎蔵の長男として生まれた。
父の慎蔵は、坂本龍馬の盟友。
寺田屋で、龍馬が瀕死の重傷を負ったとき槍で防戦。薩摩屋敷に逃げ込みその命を救う。
龍馬暗殺後は、慎蔵にあてた龍馬の遺言ともいわれる手紙で妻を託された。

 三吉さんは、米熊から「自宅裏木戸から人目につかないよう蔵に入る龍馬を度々見た」と聞いたことがあるなど、慎蔵と龍馬との深い関係を話した。

 明治維新後、米熊は駒場農学校(現・東京大学農学部)に学び、卒業後長野県職員として赴任する。
 長野県に来た理由は、政府から山口県出身の高官が多く在籍していたからだという。
 赴任後は、地場産業の蚕糸業を学び1889(明治22)年、パリ万博へ、その後イタリアで養蚕関係施設を見学。
さらに2年間、自費で蚕糸業を学んだ。
 帰国後、長野県職員を辞し、小県郡立蚕業学校校長や上田蚕糸専門学校(現・信州大学繊維学部)の創設に関わり”蚕糸業教育の中心地”とした。

 米熊は、未知の学問であった蚕業に上田で出会い、この地を拠点としてわが国の蚕糸業近代化に生涯を捧げた。
帰国してからの米熊の人生は順風満帆だったように見えるが、1911(明治44)年1月、実母と妻を亡くすという悲哀を味わっている。

 米熊が蚕業繁栄の礎を築いた上田で父の慎蔵を知る人は少ない。慎蔵が藩士として活躍した下関では米熊を知る人が少ない。
子孫として両市の架け橋になりたいと2007(平成19)年から両市の官民交流を始めた。

 講演の最後に、米熊が常に言っていた言葉「学んだらすぐ行動する」「自主自立」をあげた。
 「歴史は学んで知っているだけでは何もならない。将来にどう生かすのかを常に考えて行動することこそ重要。次世代の活躍を大いに期待する」と結んだ。