「豪華絢爛 秀吉と桃山文化」―大阪城天守閣収蔵品選―(9月6日まで・上田市立美術館)☆「真田と大阪のつながり知って」! ★ギャラリートーク行われる(※7日に「金箔瓦」のギャラリートークも)
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上田市立美術館で「豪華絢爛 秀吉と桃山文化」―大阪城天守閣収蔵品選―が開かれている。
真田と大阪のつながりを知る「ギャラリートーク」に約40人が参加した。
上田城と大阪城の友好城郭提携から20周年を記念し、大阪城天守閣が所蔵する豊臣秀吉と正妻
・北政所(高台院)所用と伝わる煌びやかな調度品、豪華な武器武具や人々の風俗を描いた屏風、南蛮漆器など名品の数々を展示。
武田氏滅亡後、真田氏が争乱の激流を知略によって生き残り、どのように秀吉との関係を築いていったのか、武田から北条、織田、徳川、上杉そして豊臣と、刻一刻と変化する情勢を読みながら駆け引きがなされた一端が判る貴重な史料とともに、真田と大阪のつながりを展望する。
ギャラリートークでは同展を企画した市立博物館の山嵜敦子館長(4月まで市立美術館館長)が「なんで真田と大阪なのかを知ってもらいたい」と、武田氏滅亡後の秀吉と真田、桃山時代を彩る匠の技、大阪城と上田城といったテーマごとの展示を巡り解説した。
「武田氏が滅亡した後、仕えていた真田氏はどうなっちゃったんでしょう」と山嵜館長。
織田の甲州征伐で武田勝頼が討ち取られた天正10年3月以前の勢力図を見せ「列強に取り囲まれている。どこにつけば生き残れるか」と、武田家滅亡前から真田昌幸が先を見越して画策していたことがわかる北条氏との書状を紹介。
いったん北条に帰属を打診したものの、織田信長への臣従を選択したが、武田家滅亡から3カ月後、信長の死によって領有をめぐる争乱が勃発。
臣従先を北条、徳川、上杉と乗り換え、秀吉に接触していった昌幸。
沼田の所領問題で勃発した徳川と真田の戦、第一次上田合戦(神川合戦)。
その最中に昌幸は上杉を通じて秀吉に接触を図っている。
「それがわかるのが秀吉から来た返信、現存する書状で遡れるものはこれが一番古い」と、長野県宝「羽柴秀吉書状」天正13年10月17日付、真田安房守宛(真田宝物館蔵)を紹介。
「この第一次上田合戦から秀吉と真田のつながりが生まれ、時を経て小田原攻めがあるが、そのきっかけとなったのも真田の所領をめぐる問題から。真田は小さい武将だと思うけれど、秀吉にとっては結構キーポイントになる動きをしていたのではないか」と話した。
城をテーマにした展示エリアでは出土品や書状などから大阪城と上田城のつながりを紹介。
人足や材木の調達など実際に伏見城や大阪城の普請に真田氏が関わったことがわかる書状の前では「秀吉に臣従した真田氏が大阪や京都に出仕し、そこで目にする豪華絢爛な装飾や建築、先進の技術に触れていたと思われる。当然、技術も盗み見るじゃないけど、見ることができるのでそういった職人を呼んだりもできたのではないか」。
大阪城址や伏見城址から出土した金箔押瓦の展示では「織田や豊臣の時代に使用され、徳川時代にはなくなる。上田城の掘跡からも実は金箔瓦が出ている」と真田氏上田城の金箔瓦も紹介。 これに関して8月7日に「金箔瓦からみた上田城と大阪城」と題し、市櫓復元推進室の和根崎剛室長がギャラリートークを行う。
午後1時半から。
山嵜館長は「第一次上田合戦前後で自分の所領を守るために動いていった昌幸。それがあって、その後の北条攻めのポイントにもなり、秀吉が天下統一を成し遂げていく。大阪の陣で信繁の活躍だけじゃなく、昌幸が秀吉とつながっていったという流れのなかで、大阪との切っても切れない縁を感じてもらえたら」と話した。
8月13日からは重要文化財「南蛮屏風(紙本金地著色南蛮人渡来図)」を限定公開する。
ヨーロッパからの南蛮船が日本の港と中国の港に来港した様子が描かれ、右隻に日本の港に入津する南蛮船や荷揚げの様子、南蛮寺やロザリオをさげた日本人など。
左隻は想像上の中国の港を描いたと考えられ、異国の港に南蛮人とともに中国的な風俗の東洋人が多数描かれている点が珍しいという。
現在は実物大の画像パネルを展示しており、山嵜館長は「近寄って細部まで見られるのが良いところ。よく見ておいて、本物が来たらまた二度楽しめる。リピート割もある」と話していた。
会期は9月6日までの午前9時から午後5時。
入場料有料。
火曜と8月12日は休館。
大阪城・上田城友好城郭20周年記念関連で9月21日はシンポジウムをサントミューゼ小ホールで行う。
市立博物館では9月3日から11月10日に秋季企画展「上田城と城主たち」が開催する。



