企画展「蘇民将来符」(上田市国分の信濃国分寺資料館・3月31日まで) ★信濃国分寺の八日堂縁日に合わせ
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上田市国分の信濃国分寺資料館は、信濃国分寺の八日堂縁日に合わせた恒例の企画展「蘇民将来符」を3月17日まで開いている。
1月7日と8日に開かれた「八日堂縁日」で頒布された「蘇民将来符」は市の有形民俗文化財。
厄除けの信仰として全国各地にある蘇民将来信仰には、さまざまな形の護符やお札がある。
信濃国分寺の蘇民将来符は六角柱で上の笠部が六角すい状、地元の蘇民講による蘇民将来符には七福神などの絵柄があるのが特徴になっている。
この企画展では、毎年この時期しか公開しない市指定文化財の古文書「牛頭(ごず)天王之祭文」=室町・1480年=と、絵図の「八日堂縁日図」=江戸中期ごろ=を展示している。
「牛頭天王之祭文」は、蘇民信仰の由来がわかる内容。
原本は未発見、年代が分かる写本としては国内最古とされている貴重な文化財。
縁日図は、武士や庶民など363人が描かれている。
さまざまな物が売られたことが分かり、当時と現在の蘇民将来符の形が少し違うことも見られる。
形の違いは、護符の下部が上部より細くなっている。
実際に展示している上田市林之郷、細田家の護符には、下部が細くなっているタイプの護符もある。
細田家の護符には、現在は見られない高さ39・7㎝の特大サイズもあって展示している。
今回の企画展では、佐久市伴野で呉服屋を営んでいた斎藤裕三家にあった数多くの蘇民将来符を展示している。
斎藤家は江戸時代に繭問屋、紙問屋など、明治以降に呉服屋となった旧家。
明治20年ごろに上田市大屋に支店ができ、その頃から近年に至るまで求めた蘇民将来符が並ぶ。
明治、大正の時代は、蘇民将来符を母屋二階の梁に括り付けて祀ったとされている。
展示している護符の上、笠部の下の首部には縄がついている状態のものもある。
比較的最近の護符には、時代に合わせて「祝 高速道 新幹線 開通」「長野オリンピック」「信濃国分寺御開帳」の文字を入れたもの。オリンピックでスキーをする大黒天などの絵柄もあってユニークだ。
休館日は、水曜と祝日の翌日。
時間は、午前9時から午後5時まで。
問い合わせ(電話)0268・27・8706
◆「牛頭天王之祭文」の大意とは?
昔ここからはるか彼方の「須弥山(仏教世界観の中央に位置する最高の山)」の北ケイロ界の王子牛頭天王が「南天竺(インド)」から来た山鳩のお告げにより、そこの釈迦羅竜宮の姫を妻に迎えようと、南海に旅立った。
途中、疲れて日もとっぷり暮れたある日、小丹長者という大富豪に宿を頼んだが追い出されてしまった。
そこの下女が言うには、小丹長者は大富豪であるが行きかう人々を憐れむことはないので、東の方一里ほどのところで宿を借りなさいと言った。
行ってみるとそこは松林だった。
ひとつの木陰を宿にしようとすると、女に身を変えた松が、さらにさらに東の方に志のある人がいるので頼むようにと教えた。
やっとたどり着くと、蘇民将来が出てきて、貧しくてなんのおもてなしもできないがと、粟ガラを敷き粟の飯を炊いてくれた。 翌朝出発する時、宿を貸さなかった小丹長者を討ち滅ぼしたいと言った。
すると蘇民将来が、小丹長者の嫁は自分の娘なので許してほしいというので、柳の木で札を作った。
蘇民将来の子孫と書いて、男は左に女は右に掛ければ、それをしるしに許すと告げて、南海に旅立った。
釈迦羅竜宮の姫と結婚した牛頭天王は、十二年間に八人の王子をもうけ、九万八千の一族と従者を率いて帰路についた。
牛頭天王が去ったあと、天から降った宝と地より湧いた泉によって豊かになっていた蘇民将来は、金の宮殿を造って牛頭天王を待ち、三日泊まっていただきたいと申し出た。
一方、小丹長者は、魔王にならって四方に鉄の塀を築き、天に鉄の網を張って防御した。
しかし、九万八千の一族と従者により、七日七晩のうちに打ち滅ぼされてしまった。
この時、蘇民将来の子孫の札をつけた者は許され、その後も蘇民将来の子孫は、いろいろな災厄から免れたという。



