幕府老中で上田藩主「松平忠固を大河ドラマに」! ☆上田市民有志と大学教授ら活動進める
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幕府老中として日本の開国を成し遂げた上田藩主松平忠固(1812―1859)の”大河ドラマを実現させよう”と、上田市民有志や大学教授らが昨年から活動を進めている。
この契機となったのは、同市出身で拓殖大学の関良基教授が2020年に執筆した「日本を開国させた男松平忠固」。
関教授は2016年にも「赤松小三郎ともう一つの明治維新」、今年は「江戸の憲法構想~日本近代史のイフ~」を出版した。
一貫したテーマは徳川政権の全否定から明治維新へと進んだ日本の近代化の歴史の捉え方への新たな視点。
現在、関教授は、塩尻市出身の歴史学者で東洋大学人間科学総合研究所所長、文学部教授の岩下哲典教授を会長とする「松平忠固と生糸貿易研究会」の副会長として、歴史を研究する大学院生らと忠固や彼が先導した生糸貿易の調査研究を進めている。
この成果は今年6月に「刊行を目指す論文集」と「大河ドラマ制作の際の史実の証明」にもつなげる予定。
市内ではこの活動に呼応して、上田松平藩ゆかりの子孫や有志らでつくる「上田明倫会」(布施修一郎会長)や先人顕彰を通じて商店街やまちの活性化を進める「上田原町一番街商店会振興組合」(河合良則理事長)などの関係団体なども活動を活発化させている。
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昨年11月9日、明倫会や上田市民有志などが、前年に引き続き2回目となる「日本を開国させた男松平忠固の大河ドラマ実現を目指す会」を市内で開催し60人余が聞いた。
「松平忠固と生糸貿易研究会」への財政的支援を行う東京の会社経営者の本野敦彦さんが「松平忠固がいなかったら生糸貿易はなかった」として講演を行った。

本野さんは、Webで歴史サイト「松平忠固史」の運営と忠固の大河ドラマの脚本も手掛けている。
本野さんが忠固研究を始めたのはリーマンショック(2008年)の経済的混乱から金融史を調べるうちに出会った「日米修好通商条約が締結時は不平等条約ではなかった」と「日米和親と同修好通商条約の両条約を主導的に締結した人物が松平忠固」であった事実から。
講演は、これらの実証として忠固の生い立ち、忠固の卓越した業績、大河ドラマを目指すための方策の3部構成。
まず上田藩主であり幕府の老中でもあった忠固と敵対した徳川斉昭、老中阿部正弘や大老井伊直弼との関わりを藩主就任から日米和親条約、阿部の死から桜田門外の変までを時系列で説明した。
次に忠固が上田藩主就任直後から推奨した養蚕業と生糸貿易のための開港に至るまでの説明の中で、忠固が始めた生糸貿易が結果として昭和の時代まで日本経済を支えた事実や開港に際して締結した日米修好通商条約は不平等ではなかったこと、さらには幕府の経済基盤を整え史上最強とした業績などを示した。
本野さんは、大河ドラマの実現に向けてはネットワークの構築が重要として、忠固の子孫などや開港の地横浜で当時の生糸の全輸出量の半分以上(三井家記録)を扱った中居屋重兵衛顕彰会や横浜シルクロードネットワーク横浜フォーラム、ドキュメンタリー映画「シルク時空を超えて」の熊谷友幸監督、上田紬などの関係者そして蚕都上田の学びの礎を築いた信州大学繊維学部などとの深い連携と協働を求めた。
講演会には、土屋陽一上田市長のほか中居屋重兵衛顕彰会(坂口光利会長)や重兵衛出身地の群馬県嬬恋村の黒岩彰副村長、忠固の生誕地の姫路藩(兵庫県姫路市)酒井家研究会、兄弟が藩主の田原藩(愛知県田原市)の家老であった渡辺崋山市民劇実行委員会、茨木県水戸市、オランダ人夫妻など全国のゆかりの地からの出席があった。
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翌日には、うえだ原町一番街商店会が旧上田藩主館跡にある長野県上田高校同窓会館で、岩下哲典教授の講演があり90人が聞いた。
冒頭、塩尻市生まれの岩下教授は、上田市にも塩尻の地名があることや出生地が同市北小野上田であるとして、上田とは縁が深いと話した。
講演は「徳川幕府老中と上田藩主のお仕事 松平忠固の場合」と題して、幕府の職制と老中がどのような仕事をしていたのか説明。老中は4人程度で3カ月に一度の月番であったことや大老は非常時に筆頭老中(首座)の上に置かれ強大な権力を持っていたとした。
老中の職務は広範にわたり、朝廷関係から外交、大規模な普請や大名の願いや届出に都度対応していた。若年寄は6人程度で准老中、3万石以下、幕府の全国支配担当となる老中に対し、旗本や御家人の支配を軸とする将軍家家政を担当した。
上田藩主松平忠固は実家も養子先も三河譜代(家康生誕地である愛知県で代々徳川家に属する大名)である。
1830(文政13)年上田藩主となり、1848(嘉永元)老中に就任した。
就任以来、一貫して高品質な上田産蚕種を見抜き養蚕奨励、上田と江戸に「産物改会所」を設置。
藩として絹糸や織物の品質検査を行って品質向上とともにそこに課税して藩財政を好転させた。
大坂城代時代は「城代縞」としての人気を不動のものとして横浜への販路構築し日本の産業経済を根底で支えた。
忠固のこうした卓越した業績の裏では、奏者番寺社奉行そして罷免、奏者番と寺社奉行再任。
大坂城代から老中そして罷免、老中再任、勝手掛そして罷免、横浜開港がなった1869(安政6)年6月の3カ月後の9月急死するという激動の一生をおくった。
鎖国から海外交易への大きな時代の転換期の主人公でもあり大河ドラマの素材としてふさわしいとした。
また、現在進めている研究会の成果を令和7年6月に「(仮称)幕末の老中松平忠固その政治と生糸貿易」として吉川弘文館からの刊行を予定していると話した。
講演の締めくくりに、時代を切り開いた先人や数々の業績が生まれた上田の地をもっと磨くべきであり、既存の施設のさらなる活用や東洋大学講師派遣事業でも協力したいとした。
そして、現在進む上田城跡整備に際して移転を予定している市立博物館や老朽化している中央図書館、そして城下町としての趣が残る中心市街地活性化も含め、明日のまちづくりにつながる研究施設を併設した複合施設であるサント(蚕都)ムセイオン(=ギリシャの学芸の神ムーサイの宮殿、プトレマイオス2世の学問文化の中心施設をイメージした造語)を建設し、全国、全世界から人を呼べる歴史交流から文化や新たな歴史を創ったらどうかと提言した。
関教授の著作や「松平忠固と生糸貿易研究会」で示される研究成果により、幕末維新の史実が根本的に転換する可能性を秘め、その中心的な役割を担った人物が上田出身者やゆかりの人物でもあることはとても誇らしく、大河ドラマ実現への大きな期待と共にシビックプライド(地域への誇りと愛着)につながることを大いに期待するところである。
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上田高校関東同窓会の有志でつくる上田藩士赤松小三郎研究会(滝澤進会長)は、このほど「赤松小三郎講演会」を東京日比谷で開催。
関教授の近著「江戸の憲法構想」の帯紙で推薦文を書いた前法政大学総長田中優子さんの講演があり、200人余が聞いた。
赤松小三郎(1831―1867)は、上田藩士の次男として生まれ、18歳で江戸に出て数学、天文、蘭学、砲術などを学び、勝海舟に従い長崎の海軍伝習所で学びを深めた。
その後、上田藩での藩兵の洋式調練を指導した後、江戸で英語を習得1865(慶応元)年に「英国歩兵錬法」を翻訳刊行した。
その後、京都で私塾を開き薩摩藩に招かれ英国式の兵法を教えた。
小三郎は、新しい日本のあり方を1867(慶応3)年に幕府、薩摩藩などに「建白七策」として提出し「天幕御合体、諸藩一和」のために奔走したが、再三の上田藩からの帰藩厳命に応じた直後、倒幕に向かう薩摩藩士により京都で暗殺された。
基調講演で田中優子さんは、まず江戸時代学びの場としての寺子屋や私塾や藩校幕府直轄の昌平黌(しょうへいこう)などを紹介し当時の就学率は70%から86%であったとした。
さらに地方にも私塾が増え学びの質が高まり、幕末の志士たちを育む契機になったこと、こうした中で赤松も学び続け、身分や階級を問わない普通選挙による議会制民主主義を提唱したとした。

パネルディスカッションでは、関教授がコーディネーターとなり、パネリストとして田中さんと北里大学講師橋本真吾さんが登壇した。
赤松の「建白七策」では、現憲法につながる二院制議会や現憲法に定められる国民の「三大義務(教育・勤労・納税)」を提唱。
「挙国一致」「オールジャパンの国づくりを提案する我が国最初の国家構想であり高く評価されるべきものであること」「伝統的な寄り合い自治と欧米の議会政治」「共和(=民主)思想との融合により日本独自の民主主義が根付く可能性」「多くの歴史学者が江戸末期の議会政治思想を欧米知識の受け売りであり封建議会などと評価したことへの疑問」「儒教は封建教学で近代化を妨げたか」-などのテーマで討議した。
田中さんは、明治維新が江戸時代の全否定から入り今の日本につながっている事実を直視すべきであるとした。
維新政府は天皇制を執り、結果戦争に突入敗戦を経ても依然として明治時代の藩閥政治のような考え方が今でも世襲的に繰り返されている。
改めて日本を江戸時代からやり直すときではないのかと締めくくった。



