上田市原町生まれで世界的な商業写真家の「ハリー・K・シゲタ」3月10日まで、うえだ原町一番街商店会が開催している「歩いて学んでハイ・ビンゴ」で取り上げた上田の偉人7人の一人。
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上田市原町生まれで世界的な商業写真家の「ハリー・K・シゲタ(1887―1963年)」は、15歳で上田中学(現 上田高校)を中退し、叔父の柳町森太郎を頼り単身渡米し美術学校で学び写真技術を磨いた。
その後、シカゴを拠点としてグラフ雑誌「ライフ」やビジネス雑誌「フォーチュン」などの広告ページに作品を発表した。
3月10日までうえだ原町一番街商店会(河合良則理事長)が開催している「歩いて学んでハイ・ビンゴ」で取り上げた上田の偉人7人の一人であるシゲタ(本名・重田欣二)。
河合理事長(64)の曾祖母河合はるさんは、原町に生まれシゲタと小中学校を通じて親しくしていた。河合理事長からその手紙の一部と送られた写真(コピー)を見せてもらった。
シゲタは、アメリカから度々はるさんに手紙を送っていた。現在は上田市美術館に寄託。
この手紙では、はるさんにシゲタの名声を聞いた英国写真協会の会長が、シカゴの写真スタジオを訪問したことを伝えている。
シゲタの実家は、上田市ふれあい福祉センター前の交差点に現存する蕎麦店旧東都庵の隣にあった。
父は上田銀行(当時)に勤める助太郎さん、静々堂という本屋と菓子店を経営する母ちゃうさんの二男として生まれた。
シゲタの渡米は、敬虔なクリスチャンの家庭だった重田家と付き合いがあった宣教師の誘いとアメリカへの深い憧れだとされている。
当時の上田は「蚕都上田」の繁栄を謳歌する時だった。
横浜からシアトルへ渡ったシゲタだったが、叔父は何日も不在で、ホテルに勤めながら小学校に通い英語を学んだ。
その後、肖像画を学ぶためにミネソタ州の美術学校で三年間学んだが、スケッチが級友に比べて遅かったため、カメラを使い画像として保存し完成させた。
これが写真に興味を持ったきっかけだった。
卒業後、ロサンゼルス写真スタジオに就職する。
当時のアメリカは写真文化の広まりの中、写真加工技術が求められたが手先が器用なシゲタは大活躍し、シカゴでシゲタ・ライト・スタジオを設立する。
その後、日米開戦により在米日本人として厳しい時期を送るが、その名声からシカゴ市民の嘆願で収容所を免れたという。
当時、世界的な商業写真家としてアメリカの名声を極めたシゲタだったが、彼の原風景として太郎山や千曲川があったという。
再び上田の地を踏むことはなかったが、今彼の作品は故郷に戻りサントミューゼ上田市美術館に収蔵展示されている。