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丹羽高興氏(66) 上田市の(株)タジマ顧問=現・名古屋市在住= ★タジマで48歳の時「ボーイング787の主翼」製造の陣頭指揮!

テーマ:上田市ニュース


 東京都出身、名古屋市在住の丹羽高興氏(66) は、東京大学工学部航空学科を卒業後、三菱重工業入社。
 航空宇宙関連事業33年間、海外工場での生産改革5年間、米国三菱重工業社長2年間、三菱重工業常務執行役員兼三菱航空機(株)社長を経て、43年間勤めた同社を65歳で昨年、定年退職した。
 退職後の4月、上田市の(株)タジマ(田島佳典社長)の顧問に就任した。

 また、愛知県の大村秀章知事から県内企業の航空機産業の指導を頼まれ、昨年1年間で70社ほどの「企業の設備計画」や「商談のサポート」をするなど月の半分はこの仕事に費やしている。

 タジマへは2ヵ月に1回訪れ、幹部や社員に講義を行うほか商談などのサポートをしている。

  ◇  ◇

 三菱重工業に入社したとき、配属部署は当然、設計と思っていた。
 ところが名古屋のプレス工場の現場だった。
 クーラーもなく夏は40度、冬は零下になり、しもやけにもなった。そういう所からの出発だった。

 43年間での仕事で最も苦労したのは48歳の時。
 当時の西岡会長から「ボーイング787の主翼をまとめて欲しい」と指名され、陣頭指揮をとることになった。
 それまでの飛行機は金属製だったが、ボーイング社は複合材製旅客機の開発を決め、同社に主翼の担当を打診してきた。
 従来の旅客機は金属製。
 ボーイング787は全体を複合材で作ることになり、今までの作り方と全部変わってしまい、トラブルだらけだった。
 1000億円という巨額、社運をかけての挑戦だったが、5年の歳月を費やして、中部国際空港から第1号機を出荷することができた。 
 この大事業に部下は1000人。
 一人では何もできない。「丹羽さんと一緒に頑張ろう」と皆がその気になってもらわない限り成果はでない。 
 そんな時、支えになったのは就職して最初に配属されたプレス工場の人たちだった。
口を聞いたこともない現場の作業者、猛獣の檻に放り込まれたような心境。
どうしようと思ったが、一生懸命やった。すると周りが、だんだん認めてくれるようになった。
 プレス工場へ入った時は、とんでもない所に入ったと思ったが、ボーイングの主翼を任されたとき「あの時一緒にやったなあ」と言ってくれる人が大勢いた。結果的にプレス工場に配属されたことが自分を救った。

 ボーイング787が.最初飛んだ時、主翼が折れないかと心配だった。
今は、この飛行機に乗るときはなるべく主翼が見える窓側に乗っている。
 「希望通りの職場、希望通りの仕事ではないケースの方が多かったが、違う環境で頑張ってみようと思ったら、面白味はでてくるし、お付き合いしたことがなかった人たちとの関係もでき輪も広がる。周りは見ていてくれる」と振り返る。

 〈プライベート〉
 趣味はゴルフと名城めぐり。
 2年間で115城を訪ねた。水泳を月8回、1日2000m泳ぐ。
 座右の銘は「天の時、地の利、人の和」。